第二の天守があった?(2)
村上市の復元案には問題が?
しかし、色々資料をあたるうち、先の復元イラストには、実はかなりの問題があることが見えてきた。中でも最も強力な根拠となるのは、村上城の建造物を実測した記録『村上御城廓』(※)の内容である。同資料は三重櫓が築かれてから既に100年近く経過した、正徳元年(1711年)の記録であるが、三重櫓について次のように記している。
下重 七間三尺×四間四尺、窓六ヶ所
同所御多聞、弐間壱尺、拾三間三尺、窓五ヶ所、鉄砲挟間六ヶ所
中重 三間五尺四方、窓六ヶ所
同所入口御多聞、壱丈五寸×三間三尺、窓弐ヶ所
上重、三間四方、三方ニ板戸建
一見難解に見えるが、少なくとも以下のことは読み取れそうである。
(※)『村上御城廊』
正徳元年(1711年)、松平輝貞時代の村上城の実測記録。一寸単位まで採寸した極めて詳細な記録である。(村上市『史跡村上城跡保存整備基本計画 資料編』1998)