第二の天守があった?(3)
第二の天守として築かれた三重櫓
以上のような考察から、初期望楼型天守のような三重櫓の姿が浮かび上がってきたが、これを我々はどのように評価すべきだろうか? 筆者はまさにそれを、村上城「第二の天守」だったと考える。
一つ目の根拠は、何よりそのサイズである。三重櫓の一階平面は4間4尺に7間3尺。これは、天守の一階平面5間×7間とほぼ同一のサイズであり、他の櫓をコンパクトに設計した村上城にあって(多くの櫓は4間×3間程度)破格の大きさである。さらに、天守と三重櫓双方の床面積を算出すると、なんと約35坪で一致するではないか! これは偶然の符合というにはでき過ぎている気がする。「構造上大きくならざるを得なかった」というよりは、「意図的に天守と同等の大きさで作った」と見るべきではなかろうか。
二つ目の根拠は、高欄を巡らせたかどうかは別にしても、3階の意匠を明確に差別化していた点である。こうした手法は、徳川系のものというよりは豊臣系の天守の意匠っぽい気がするが、建築者である堀直竒は、もともと秀吉の小姓から身を起こした大名である。彼の規範となった天守が豊臣大阪城であったとすれば、「高欄を取り付けた櫓=天守」という図式が成立していたとしてもフシギではない。また、「正保の城絵図」からは、三重櫓には鯱がついていたことが読み取れるが、他に鯱を載せている様子が描かれているのは天守のみである。他の櫓と明確に格式を区分していたことはこの点からもうかがわれる。
■平面規模比較
縦横サイズは微妙に異なるが、面積は35坪でぴったり一致。